中国製自転車製造における孤軍奮闘記録−39−古い思い出。

もう40年近く前の話となります。
日米富士自転車時代のことです。其の時はフジアメリカ向けの設計を担当をしていました。
殆どスポーツタイプで、S−10−Sと呼ばれ27インチ、ハイプレッシャーと呼ばれたタイヤをはいた、ドロップハンドル車で、
アメリカのコンシューマーレポートで何の賞か忘れましたが、賞を頂いた記憶があります。
その他、フジアメリカの商品は、当時石渡製作所製の022と呼ばれた、特殊鋼のCrMo鋼(クロームモリブデン鋼)を使用して、
チューブラータイヤをはいたロードレーサーを、多く生産していました。こうした背景から、フレーム設計に興味を持ち、
当時は自転車技術研究所?と呼ばれるところから、小冊子も発行されていて、常にヘッドアングル、シートアングル、ハンガー下がり、
リヤセンター、フロントセンター、ホイールベース、ホークオフセットなどなどを勉強しながら、設計に当たったことを覚えています。
また日米富士時代には、確かローマ?オリンピック自転車競技で監督をされた杉原蒋一郎さんという大変自転車競技において偉い方が、
技術部長をしておられて、其の方と、開発納期の件で無理な要求をされ、喧嘩をして、ひどくしかられたことも覚えています。
また、なんと言っても、この日米富士自転車時代に、図面を書いて、そして、そこにフレーム生産現場、前処理現場、塗装現場、
組立現場とあったために、何か私の設計に問題があった場合には、すぐに呼び出されて注意を受けたことが、
その後の私にとって、大きなプラスになったことは言うまでもありません。
そして大阪堺の阪本製作所でのフレーム関係、前処理関係、塗装関係と勉強できたことは、
その後ホダカ株式会社に入った後の、中国での仕事に対して、非常にやりやすくなったことは確かです。
しかし殆どが中国ですから、業界の会議等に出席したりする機会はほんのわずかでした。