中国自転車製造における孤軍奮闘記録−1151−昔の日本の工場(日米富士自転車)には『匠』がいた。

昔の自転車生産工場には『匠』がいたのです。
私の知っている1972年以降の日米富士自転車(今はありません)には匠がいました。
フレーム生産で競輪選手向けのフレームを作っていた瀬戸さんという方。
図面との交差0とか!。
競輪選手は自転車は自分の身体の一部、わずかな寸法の狂いも許されませんでした。
溶接の歪等全て頭に入ってのパイプ加工と思われます。
こうした人たちの技術が当時クロモリ(CrMo)と呼ばれた鋼管材料で、材料自体も進歩しておらず、クロモリ鋼を使用した量産品にも
匠の配慮がななれていたと感じています。
そして塗装には五十子(いらご)さんという方。
色を見て即座にその色の配合をやってのけます。
常に新しい独創的な色を開発していました。
そして工場を監督する権力のある大野工場長という方もおり、常に工場には生産品質安定という力が働いていたのです。
大量生産の工場とはいえ、昔ながらのこうした人たちの匠の技術が引き継がれていたと今になって感じています。