中国製自転車製造における孤軍奮闘記録−38−私のたどって来た道をお話します

私、1950年生まれ。もうおじいさんです。でも、何とか私を呼んでくれた、この中国の会社に、何か出来ればと孤軍奮闘しています。
この業界に入ったきっかけは、学生時代、学舎本館に、山王製ロードレーサーが立てかけてあったのがきっかけです。
この人が偶然にも同じ学部の、私より学生番号が6番後ろの方でした。後に車両検査協会に入られた方でした。
非常に悲しいことなのですが8年ほど前?に亡くなられたようです。
確か11、12年ほど前に、偶然埼玉の組み立て整備士試験の会場でお会いしたのが最後です。
この方とは卒業論文も一緒でした。この方と、もう一人先輩の方と、サイクリング同好会を結成させ、私はそれに加わりました。
亡くなられたこの方から、就職活動中に、『おい!掲示板に日米富士自転車が載っているぞ!』と言われたのがきっかけで、この会社を受験し、
最終的に東京町田市にあったこの会社に決定しました。
その後、諸事情により日米富士自転車を退職し、大阪堺にある(株)阪本製作所に入社しました。
この会社は主に、当時非常に販売台数を誇った出来鉄工所に、フレームを収める、フレーム製造会社でした。
そこで導入されたクボタのCADを使って、フレーム図面を描いたり、部材倉庫番をしたり、フレーム溶接(ロー付け)をしたりと、
あらゆるフレームに関する経験を積むことができました。
そして塗装前処理、塗装と、工程内容を覚えることが出来たことは、
その後の私にとって、大きなプラスになりました。
阪本製作所ではフレーム上パイプに板バネを使用して、衝撃吸収できるフレームを開発して、
第一回の大阪堺の商工会での最優秀賞?も頂いたことを覚えています。
約15年間阪本製作所におリ、このころから自転車業界大きな転換期を迎える事になり、阪本製作所を去ることにしました。
阪本製作所にいたときに、日米富士自転車時代に私を阪本製作所に呼んでくれた、阪本宣久社長は、若くして亡くなりましたが、
非常に苦労人で、生きていれば私の人生も変わっていたことでしょう。
阪本製作所を去った後は、知人の紹介で、埼玉県越谷市にある、ホダカ株式会社に入社し、定年まで勤めることになります。
定年までの11年間は主に中国が仕事場で、主に上海GP(GIANT PHENIX)、昆山GIANT、天津GIANTで仕事をしてきました。
そして定年後は中国シンセンにある自転車工場に勤めています。